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◯作品データ 公開日:青い山脈(1949年7月19日・東宝)続青い山脈(1949年7月26日・東宝) 尺数:前篇9巻2510米、後篇9巻2498米 スタッフ 監督:今井正/製作:藤本眞澄/協力製作:代田謙二・井手俊郎・馬場和夫/原作:石坂洋次郎/脚色:今井正・井手俊郎/撮影:中井朝一/美術:松山崇/録音:下永尚/照明:森茂/編集:長澤嘉樹/音楽:服部良一/演出補佐:西岡豊 キャスト 寺沢新子(杉葉子)金谷六助(池部良)島崎雪子(原節子)沼田玉雄(龍崎一郎)富永安吉(伊豆肇)笹井和子(若山セツコ)梅太郎(木暮実千代)松山浅子(山本和子)井口甚蔵(三島雅夫)岡本先生(藤原釜足)田中先生(生方功)北原先生(飯野公子)武田校長(田中榮三)駒子(立花満枝)宝屋のお内儀(岡村文子)長森老人(高堂國典)易者(長浜藤夫)柳屋の主人(深見泰三)八代教頭(島田敬一)小野先生(諏訪美也子)中尾先生(三田國夫)白木先生(原緋紗子)岡本先生の妻(馬野都留子)野田アツ子(岩間湘子)田村静江(江幡秀子)六助の父(石島房太郎)六助の姉(志茂明子)六助の母(英百合子)松山浅右衛門(河崎堅男)国民服の男(大町文夫)栄家の婆や(一色勝代)看護婦(上野洋子)弥生の女将(浜地良子)弥生の仲居(出雲八重子)芸者(高野千代) ◯封切成績 キネマ旬報1949年9月上旬号「映画館」より 前編 7館総計 925万2326円(松竹は『四谷怪談 後篇』、大映は『虹男』を上映) 後編 7館総計 769万8763円(松竹は『海の野獣』、大映は『満月』を上映) ※1949年度で総計がこれを上回るのは以下の5番組(配給はいずれも東宝)。 『夢よもういちど』(新東宝/1月第2週・7館総計1058万0134円) 『深夜の告白』『日本敗れたれど』(新東宝+ZMプロ/6月第4週・7館総計929万8843円) 『野良犬』(映画芸術協会/10月第3週・6館総計850万1904円) 『紫頭巾 前篇』(CAC/5月第2週・7館総計803万9561円) 『平次八百八町』(新演伎座/8月第2週・7館総計773万9816円) 映画年鑑1950年版「封切成績一覧」より 前編 4館総計 26万7869人 後編 4館総計 25万5686人 ◯シナリオ 映画芸術1949年3月号 キネマ旬報臨時増刊号 戦後十年傑作シナリオ集(1956年12月10日発行) 日本シナリオ大系第2巻(1973年12月発行) ※巻末にスタッフ・キャスト表、「戦後十年の人間像・作品解説」(小林勝)付記。 ◯同時代批評 作品分析ノート 青い山脈(シナリオ文芸1949年4月号) 主題について(田村幸二) 構成について(吉田隆一) シナリオ研究 青い山脈(梶冬彦・映画芸術1949年5月号) 企画時評(5)「青い山脈」の教えるもの(山内達一・キネマ旬報業界特報56号 1949年6月11日発行) 批評特集 青い山脈(キネマ旬報1949年7月上旬号) 脚本 社会と人間の関連(滋野辰彦) 演出 生きるよろこび(山内達一) 演技 諧調の中の俳優(旗一兵) 今月の推薦 青い山脈(双葉十三郎・スタア1949年8月号) 作品研究 青い山脈(双葉十三郎【三宅成也名義】・映画春秋1949年8月号) →日本映画批判 一九三二 - 一九五六(トパーズプレス・1992年8月10日発行)に収録 新聞記者の衝く映画縦横談(シナリオ文芸・1949年8月号) ※対談:小林勇吉(東京新聞)谷村錦一(読売新聞)渡邊義三郎(時事新報)井澤淳(朝日新聞)松村英男(毎日新聞)猪俣勝人 作品批評 青い山脈(大塚恭一・映画評論1949年9月号) 映画 青い山脈をめぐって(編集部・社会と学校1949年11月号) 今井正氏への書簡 「青い山脈」を中心に(中村登・映画季刊第5集・1949年12月25日発行) 本年度の映画界を顧る(映画評論1949年12月号) ※対談:登川直樹・清水晶・今村三四夫 一九四九年度総決算(キネマ旬報1950年2月上旬号) シナリオ作家展望(滋野辰彦) 日本映画発展のために(北川冬彦) 特集 一九四九年度の総決算(映画芸術1950年3月号) 日本映画決算 日本十監督素描―昨年の足跡を中心として―(清水晶) 映画俳優この一年(旗一兵) 日本映画の一年(山村謙一) 四九年度日本映画のカメラについて(持田米彦) 新人論壇 感傷について(佐藤忠男・映画評論1950年4月号) 監督 今井正と五所平之助(飯田心美・新映画1951年7月号) ◯受賞 キネマ旬報1949年度ベストテン 日本映画第2位 1位:井澤淳、早田英敏 2位:飯島正、小林勇吉、滋野辰彦、旗一兵、双葉十三郎、松村英雄、水町靑磁、山内達一 3位:足立忠、岩崎昶、上野一郎、清水千代太、津村秀夫、登川直樹 4位:飯田心美、時実象平、林勝俊、村上忠久 5位:大塚恭一、谷村錦一 6位:北川冬彦 第4回毎日映画コンクール賞 女優演技賞:原節子(青い山脈、晩春、お嬢さん乾杯) 助演演技賞:木暮実千代(青い山脈) 撮影賞:中井朝一(野良犬、青い山脈) 都民映画コンクール 第1位(東京都・東京新聞社主催) スクリーン・ステージ ベストテン第2位 スタア ベストテン第2位 映画芸術 ベストテン第4位 映画評論 ベストテン第3位 2位:滋野辰彦、登川直樹 3位:今村三四夫、清水晶、上野一郎 シナリオ賞選出(「シナリオ」誌) ◯井手俊郎の述懐 (略)前篇は割合にすらすらと書けたけれど、後篇になってハタと筆がすすまない。(略)後篇だけのファースト・シーン、クライマックス、ラスト・シーンなんて、まるでどうしていいんだか全然手も足も出ない。苦しまぎれの冗談まじりに、序幕鶴ケ丘八幡宮の場が金物屋で、三段目・四段目の殿中と松の廊下が女学校の教室や廊下や会議室、ちょっと息抜きに道行旅路の花聟が、高等学校テニスの場、ガンちゃんが伴内で、首を振ってる高校生はさしずめ花四天、山崎街道は夜の街で、定九郎や勘平らしい人達も出て、どうやら前篇の終りということになってるらしい――冗談じゃないと思いながら、しかし「仮名手本忠臣蔵」なんてきっと立派なドラマツルギイにちがいないし、映画的かどうかはともかくとして、後篇もその調子であてはめてみよう――。 そして、それまでもたもたと理事会がクライマックスで且つラスト・シーンであるかのように錯覚を起していたのが、理事会は七段目一力茶屋の場で、その後に八段目・九段目・討入りから両国橋引揚げ、自転車ハイキングまであってもいいらしいなど――うまく竹田出雲氏におんぶして、我ながら大胆不敵にも今井さんへ押しつけてしまった。 「青い山脈」の時、台詞が多すぎると随分注意を受けたので、「女の顔」は気をつけてるつもりだったのが、やっぱり大変な台詞劇になってしまった。うんと早く喋らして下さい、テンポが早くなっていいと思うがなァ、などと今井さんに無理を言いながら、心の中ではさすがに少し多過ぎたかなと思って、台詞の数を調べてみたら九百以上ある。他のシナリオを数えてみたら、大がい四百からせいぜい多くて七百位まで――。口惜しくなって島津さんの「家族会議」を調べてみると、千を越している。どうです、と言ったら、それはトーキーの初期だから台詞に頼ったんで、洗練されるほど少なくなるもんだと言う。やっぱり悔しくて外国映画を調べたら大がい千五百から、多いのは二千近く――勿論、長さにもよるけれど、大変な台詞の洪水である。外国人の方がお喋りなのかもしれないけれど、日本人だってこの頃は随分みんな早口でよく喋るし、台詞は多くてもいいように思うけれど、でもどんなものだか、はっきり自信はない。 もう一つやっぱり「青い山脈」の時もそうだったけれど、傍役が多すぎると叱られた。それも堂々たる傍役ではなくて、仕出しと傍役の中間みたいなつまらない端役が多いというのである。そういう役に全部一本分の出演料を払ってると俳優費が高くなって困るというのである。なるほど、最近スター諸氏の出演料を凄いそうだから無理もない話である。さしずめシナリオはなるべく主要人物だけで物語を展開し、あとは台詞を言はない仕出しをチラホラさせるようにした方がいいということなんだろうけれど、そういう勉強はとてもまだまだこれからである。 (略)残念ながら、未熟な脚色者の場合、こういう軽い役が出て来て、その場の雰囲気なり、主要人物の気持なりをそれとなく説明してくれなくては、とても物語はスムースに展開してくれないのである。(「脚色盲蛇記 青い山脈――女の顔」映画春秋1949年11・12月号) で、「青い山脈」なんですが、シナリオははじめ小国(英雄)さんだった。ところが小国さんが身体の具合で途中で完成しなかったので、今井さんも困りはてたわけですが、無能なるプロデューサーは誰かにたのむというつてもないんです。困りきって、自分で家で書き出しを五〇枚ばかり書いて、今井さんに持っていった。こんなふうな調子でどうだろう、そしたら今井さんがこの調子で書いてよ、っていったのです。それが、シナリオを書きはじめたきっかけですね。それがわりに評判がよかったのですが、そのあとずーっと何年か遊んでいました。争議がはじまったものですから・・・・・・。だから、習作といえば「青い山脈」以後の方が・・・・・・。ご謙そんでなく・・・・・・。(「私の習作時代」シナリオ1958年9月号) (略)その炭坑の中で、特別女子挺身隊と呼ばれている女の人達があった。どうして特別かというと、みんなこの炭坑町の芸者さんたちばかりの挺身隊だからである。 私たちは見学の後、夕食をご馳走になったが、その席でこの人たちがお給仕をしてくれた。もちろん、白粉っ気なしのモンペ姿である。 その時のこの人たちの話しっぷりや姿が何となく面白かった。所謂脂粉の世界からいきなり真黒い炭塵の世界へ飛び込んで来て何となくとまどっているような様子が印象に残った。 それをシナリオに書いてみようとは、映画会社に勤めているくせに、全然思いもしなかった。どういうわけだか、舞台脚本に書いてみたいと思った。素材のせいかもしれない。花柳章太郎とか水谷八重子とかいった新派の人々にうってつけのような気がした。 シナリオも舞台脚本も、もちろん、一度も書いたことはない。盲滅法に書き流してみたら、五幕になってしまった。少し長すぎるような気がしたけれども、誰かに見て貰いたくて、東京にいた頃、ほんの一寸面識のあった八木隆一郎先生(先生という言葉は空々しくて嫌いだが、この場合やはり先生が一番適当だから)に送った。折返し丁寧な批評がとどいた。僕はびっくりした。感激した。そこへ今度は召集令状が来た。三日位後には兵隊にならなければならない。 僕はあわてて脚本を直しはじめた。八木先生のご意見通り二幕位に縮めた。出征準備の忙しい最中に徹夜して書いて、そしてまた、八木先生のところへ送って、そして久留米の兵営ヘ入った。 二、三ヶ月は夢中で新兵の訓練を受けている頃、八木先生から便りがあって、もしかしたら、あの本が新派で上演されるかもしれないといってきた。びっくりした。感激した。しかし、それからまた二、三ヶ月後、東京は空襲が烈しくなって、舞台公演も不可能になったといってきた。あんまりがっかりもしなかった。兵営の中で、そういう手紙を読めるということだけで、僕は幸福すぎるほどだった。 (略)終戦後、東宝撮影所でプロデューサーの助手をやることになった。まもなく『青い山脈』の脚色をしてみないかといわれた。とんでもない、シナリオなんか全然自信がなかった。監督の今井正氏が、とにかく少しでもいいから書き出してみてくれとすすめた。ファーストシーンだけ書いて、見せたら、このまま書き続けてみろという。とうとう最後まで書いた。それがまもなく映画になった。つまり僕のシナリオの処女作というわけである。 全然、シナリオなんか書いたことのなかった僕に、どうして今正氏がやゝしつこく書いてみろとすすめられたか、あとで今井氏がいった「いつだったか、八木さんがいったんだよ、井手君に機会があったら書かして見ろって・・・・・・」(『青い山脈』以前・シナリオ1961年10月号) (略)生まれてはじめて、『青い山脈』という映画の脚本を書いた。前後篇で原稿紙二百枚ばかり書かなければならない。長編小説の脚色で、芝居になりそうなところを拾っていけばいいんだけれど、三分の一ばかりのところでハタと詰ってしまった。あとをどんな場面へ続けたらいいのかさっぱりわからない。はじめから読み返してみると、このへんが序幕で鶴ケ丘八幡宮だな。このつなぎが進物場。女先生がいじめられるところは刃傷から切腹。駈けつける校医が由良之助。そこで詰った。次は道行だ。なるほどこのへんで一時ストーリーを追うのはおあずけにして、ミュージカルで息抜きというわけか。そこで主役の少年と少女がテニスをやって、明るい歌が流れるという場面にした。その後は山崎街道だから、校医が夜道で暴漢に襲われる。ヤマ場の理事会の場がつまり一力茶屋。これでもうほとんどすんだようなものだけど、また道行があるから、若い人たちを自転車に乗せてまた主題歌が流れて、最後に幾組かのカップルが結ばれるところが討入りで、どうやらめでたく書き納めた。(略)(「村芝居のことなど」演劇界1974年2月号) ◯備考 ・原作は朝日新聞で1947年6月9日から10月4日まで連載された。連載予告の時点で東宝・松竹・大映が映画化を申し込み、7月頃には朝日新聞に構想・スタッフなどをプレゼンテーションしている(松竹は木下恵介監督を予定、また島崎雪子役に原節子を起用する案は三社で共通していたという)。原作者と朝日新聞学芸部記者・井沢淳の協議の末、東宝が映画化権を獲得した(キネマ旬報1947年9月特大号「撮影所」欄にて映画化決定の第一報が掲載)。1947年9月には早くも製作準備に入り、11月には最初の脚本が完成している。 ・脚色は当初小国英雄が担当した。だが原作を大きく改変した脚本(六助と従兄妹同士であることを知った新子が自殺を図るなど)であったため今井正が難色を示し、小国は降板する。製作者であった井手俊郎が脚本を受け継ぎ、最終的に脚本は3回改訂された。それに伴い現場指揮の責任者は井手から代田謙二(能登節雄)に代わった。 ・1948年2月には主要キャストが決定。当初、久我美子の出演が予定されていた(寺沢新子役か?)模様で、キネマ旬報1948年3月上旬号「撮影所」欄や同4月上旬号の登川直樹による記事「陽春の日本映画 各社のスケジュールから」にその旨が記載されている。芸者・梅太郎役に今井は杉村春子を主張したが、藤本が推挙した木暮実千代が起用される。また杉葉子はオーディションにおいて松山浅子役で応募したが、最終的に新子役に抜擢された(南俊子「杉葉子の印象」スタア1949年10月号)。 ・1948年4月1日に撮影を開始したが、第3次東宝争議(4月8日~10月19日)勃発のために『女の一生』『白い野獣』『ジャコ万と鉄』とともに中断を余儀なくされる(争議前に撮影されたカットは完成作品に全く使用されていない)。争議において井手は会社側を批判する「数字の魔術」(中闘日報No.21・5月19日発行)、「白昼の決闘の中から 一プロデューサーの感想」(キネマ旬報1948年7月上旬号)の寄稿、芸術家グループ「声明書」への署名(8月12日)および大映多摩川撮影所への訪問・趣旨説明(8月13日)など積極的に活動している。争議終結後に井手・藤本は東宝を退社し、石坂洋次郎を役員に迎えて同じく退社した金子正且・白子詔三郎とともに藤本プロダクションを設立した。東宝は争議の影響で自主製作能力を著しく損失したため、再開後の製作は藤本プロが受け持つことになった。 ・撮影が長期に渡り中断されたため、さまざまなメディアで紹介されたスタッフ・キャストのクレジットと完成作品との間にかなりの異同が見られる。代表的なものを以下に列挙する。 日本映画紹介欄 青い山脈(キネマ旬報1948年4月下旬号):脚色に小国の名前があるほか、照明・石川緑郎、富永安吉・矢崎浩、井口甚蔵・永田靖、武田校長・薄田研二となっている。また、赤木蘭子が演じる予定であった新子の母は完成作品には登場しない。 青い山脈(近代映画1948年6月号):脚色・今井正、撮影・宮島義勇、校長・薄田研二、梅太郎・三浦光子、富永・星野和正、井口理事長・山本禮三郎、易者・殿山泰司。出演者として名前が挙がっている飯田蝶子、進藤英太郎、赤木蘭子、石黒達也はいずれも未出演。 青い山脈(新映画1948年6月号):脚色・八木隆一郎、撮影・三浦光雄、彌吉(六助の父)・菅井一郎。 特に興味深いのは新映画の記事。脚色の依頼を受けた八木が(おそらく小国への遠慮から)断る代わりに、井手の名を挙げたのではないだろうか。 ・撮影は1948年12月20日に再開され、1949年4月2日に終了している(撮影期間99日、実撮影日数は66日)。原節子の20日間におよぶ病欠や撮影延期によって生じた出演者の掛け持ち撮影の増加を原因とする撮影日数超過のために俳優費がかさみ、下田で予定されていたロケーションの規模は大幅に圧縮された。前後編に分けられたのも2本分の予算を得るためであったが、それでも最終的に製作費は東宝から出資された2500万円を上回る2750万円となった。この赤字は藤本プロが負うことになったが、映画館での上映権を除く作品のすべての著作権を譲渡されたために日本テレビに放映権を売ることができ、最終的に完済することができた。 ・主題歌の挿入をめぐって今井と服部良一が対立した(今井は抗議のためダビングルームから退出、藤本が代わりにダビングに立ち会った)。その結果、今井・服部それぞれの意向に沿ってダビングされた2種類のフィルムが作成され、完成試写での比較検討を経て最終的に服部版が正式の公開版となったという。 ・本作品の興行的・批評的成功によって確立された石坂洋次郎との信頼関係は藤本プロおよび井手にとって大きな財産となった。石坂作品を軸とする青春映画路線は藤本プロ(東宝に吸収されたのちも含む)の3本柱(他にサラリーマン喜劇、文芸映画)の一つを形成した。井手は生涯に石坂作品を29本脚色することになるが、その中には本作品の3度に渡る再映画化(1957、63、75年)も含まれている。また、デビュー作となった杉葉子は以後藤本プロ草創期を支える活躍を見せることになる。 ◯参考資料 気の弱い山脈(今井正+井手俊郎・映画芸術1949年3月号) 「青い山脈」はこうして完成した 藤本真澄・時実象平対談(映画評論1949年9月号) 1949年度封切内外作品目録(キネマ旬報1950年2月下旬号) 映画年鑑1950年版(時事通信社) 占領のぬかるみ―検閲・パージ・抵抗の時代―(今井正・映画芸術1964年8月号) プロデューサー人生・藤本真澄 映画に賭ける(尾崎秀樹編・東宝出版事業室・1981年12月1日発行) 青い山脈 前篇 後篇(佐藤忠男・キネマ旬報増刊 日本映画200・1982年5月30日発行) 日本映画名作劇場 第十五回 「青い山脈」から「また逢う日まで」(今井正+白井佳夫・別冊文藝春秋1990年夏号) 日本映画名作劇場 第三十四回 「青い山脈」からヤクザ映画まで 特別対談 池部良・白井佳夫(別冊文藝春秋1995年夏号) 映画の中の『名セリフ・名シーン』連載第2回 今井正・井手俊郎シナリオ「青い山脈」(久保田圭司・シナリオ2009年1月号) →シナリオ2011年1月号別冊 名作映画の構造(シナリオ作家協会・2010年12月10日発行)に収録
by vince_et_marcel
| 2016-06-13 21:53
| 研究
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Comments(2)
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vince_et_marcel at 2016-06-14 15:49
藤本プロ所有の『青い山脈』の著作権って、最終的にどこに帰属したんだろう。東宝? 並木プロ?
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vince_et_marcel at 2016-12-05 20:54
参考資料に「占領のぬかるみ―検閲・パージ・抵抗の時代―」を追加。
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